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「舞姫」 森鴎外 ・・口語訳Ⅰ

by 杉篁庵庵主

「舞姫」森鴎外

      口語訳

①石炭は早くも積みおわったようす。二等船室のテーブルの辺りは人けもなく静かで、白熱電灯の灯りが白々と明るく輝いているのもかえって虚しく感じられる。いつも晩にはここに集まってくるトランプ仲間も、今夜ばかりは陸のホテルに宿を取っていて、船に残っているのは私一人なのだった。

 いまから五年前のことになるが、日頃の念願がかなって官から渡欧のことをおおせつけられ、このサイゴンの港まで来たころは、見るもの聞くもの、すべてが新鮮な印象であった。その時、興にまかせて書き散らした旅行記は毎日どれほどの多さであったろう。どれも当時の新聞に載せられて世間の人々にもてはやされたものだが、今になって思えば子供めいた考え、身のほどをわきまえない言いたい放題、でなければありきたりの動植物や鉱物や、はては風俗習慣などまでもを珍しそうに書き記していた。それらを、分別ある人はいかに見たであろうか。

 それに比べ、この度の帰国の途上に日記をつけようと買ったノートがまだ白紙のままなのは、ドイツで学問をしていた間に、冷淡で虚無的な性質を身につけたからであろうか。いや、これには別にわけがあるのだ。

 実際、東に向かって戻る今の私は、かつて西に向かって船出した昔の私ではない。学問だけはいまだ満ち足りないところも多いけれども、世間のつらさや悲しさも知った。人の心の当てにならないのは言うまでもなく、この自分の心までがいかに変わりやすいものであるかもよく思い知ることが出来た。昨日良しとした物の見方・考え方を今日は否定していると言うような、私自身の時々の変容を、紙に写してだれに見せようか。これがすなわち日記の書けない由来なのか。いやいや、これには別にわけがある。

 ああ、ブリンジイシイの港を出航してから、すでに二十日余りを過ごした。普通なら初対面の旅客に対しても親しく交際し、たがいに旅の暇な辛さをなぐさめあうのが航海の通例であるのに、身体の不調のせいにして船室のうちに閉じ籠もってばかりいて、同行の人たちにも口を利くことが少いわけは、人に知られぬ苦しい思いに心を悩ませていたからだ。この苦しい思いは、はじめは一ひらの雲のように心をかすめていて、スイスの美しい山なみも目に映ることなく、ローマの古蹟にも心をとどめさせないのみか、時を経るとやがてこの世が厭になり、さらにわが身をもはかなんで、はらわたがねじり切れるほどの痛みを感じ、今は心の奥に凝り固まって、一点の影とばかりになったものの、それでも本を読む度に、あるいは物見るごとに、鏡に映る影法師かあるいは声に応じるこだまのように、限りなく昔を懐かしむ思いを呼び起こして、幾度となく私の心を苦しめる。

 ああ、どうしたらこの苦しい思いを消し去ることができようか。これがほかの嘆きであったなら、詩や歌に詠んだあとはきっと気持ちもすがすがしくなるであろう。こればかりはあまりに深く私の心に刻み込まれたのでそれもなるまいと思うけれども、今夜はあたりに人もいない、ボーイが来て明かりを消していくまでにはまだ時間もありそうなので、その概略を文章につづってみることにしよう。

 ②私は幼いころから厳しい家庭教育を受けたかいがあって、父をはやくに亡くしたけれども学問が後退してしまうこともなく、旧藩の学校にいたころも、東京に出て大学予備門に通っていたころも、大学法学部に入った後も、太田豊太郎という名前はいつも同学年の首席に書き記されていたので、一人っ子の私を頼りとして暮らす母は心安らいでいたであろう。

 十九歳で大学を早くも卒業し、学士の称号を受けたとき、大学創立以来いまだかつてない名誉であると人にも言われ、そして官庁に奉職して、故郷の母を首都東京に呼び迎え、楽しい年月を送ること三年ばかり、上官の受けも格別であったので、ついには「外遊して課の事務を調査せよ。」との命令をうけ、わが名を上げるのもわが家を興すのも今こそと心が勇みたって、五十歳を越えた母に別れるのもそれほど悲しいとも思わず、はるばると故国を離れてベルリンの都までやってきた。

 ③私は、漠然とした名を挙げたいという思いと、自己を抑制して努力し勉強する力とをもって、たちまちこのヨーロッパの新興の大都市の中央に立った。

 わが目を射るのはなんという輝き、心を惑わそうとするのはなんという美しさ。「菩提樹の下」と訳してしまうと、ひっそり静かな所のように思われるが、このまっすぐな髪のように延びている「ウンテル・デン・リンデン」の大通りに来て、左右の石畳の歩道を歩む幾組もの男女の群れをご覧なさい。まだ皇帝ヴィルヘルム一世が街路に臨む宮殿の窓から街をご覧になっていたころのことで、胸を張り、肩をそびやかした士官が色とりどりに飾り立てた礼装をしている姿や、麗しい娘がパリ風の化粧をしているさまは、どれもこれも驚きの目をみはらないものはない。更には、車道のアスファルトの上を音もさせずに走るさまざまの馬車、雲にそびえる高楼が少しとぎれた処には、晴れた空に夕立のような音を響かせてあふれおちる噴水の水、遠く望めばブランデンブルク門をへだてて緑の木々が枝を交わしているなかから空に浮かび出た凱旋塔の守護女神像など、おびただしい景観が目の前にひしめき集まっているのだから、初めてこの地を訪れた者が見るもの聞くものに次々と心奪われてしまうのももっともなこと。

 しかし、私の胸にはたとえいかなる場所に旅しても害ある余計な美観には心を動かされまいとの堅い決意があり、いつも迫ってくるこれら華やかな外からの誘惑を絶ちきっていた。

 私が呼び鈴を鳴らして案内を求め、国からの紹介状を出して日本から来たとの意を告げるとプロシア国の役人は、みな快く迎えてくれ、「大使館の手続きさえ無事に終わったならば、何なりと教えも伝えもしましょう。」と約束した。うれしかったのは、私が故国においてすでにドイツ語もフランス語も学んでいたことだ。彼らははじめて私に会ったとき、どこでいつの間にこれほどに習得したのかと尋ねないことはなかったのである。

 さて、公務の暇がある度に、前もって正式の許可も得ていたので、現地の大学に入って政治学を修得しようと、学籍簿に名を載せる手続きを取った。

 ひと月ふた月と過ごすうちに、公式の打ち合わせも済んで、取り調べもだんだんはかどっていったので、急ぎの件は報告書を作って本国に送り、急ぎでもないその他のものは手元に資料を写しとどめるというようにして、ついにはそのノートが何冊になったことだろう。大学の方では、自分の幼稚な考えで予想していたような政治家を養成する学科などのあろうはずもなく、あれかこれかと思い惑いながらも、二・三の法学者の講座に出ることを決めて、授業料を納め、聴講に出かけたのだった。

 こうして三年ほどは夢のように過ぎていったが、来るべきときが来ればどんなに隠しても隠しきれないものは人の好みというものなのだろう。

 私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人が神童だなどとほめるのがうれしさに怠けることなく学問に精を出したころより、上官が「良い働き手を得た」と激励する喜ばしさに怠りなく勤務を続けてきた時まで、ただひたすら受動的、機械的人物になってみずから悟らなかった。しかし、いま二十五歳になって、すでに久しくこちらの自由な大学の風潮に感化されたせいか、心の中がなんとなく穏やかでなく、奥深くに潜んでいた真実の自分が、次第に表にあらわれて、昨日までの偽りの自己を攻撃するかのようだった。

 私は自分がいまの世の中に時めく政治家になるには適当でなく、また立派に法律書を暗唱して判決を下す法律家になるにもふさわしくないことを悟ったと思った。

 私はひそかに考えた。母は私を生きた辞書にしようとし、上官は私を生きた法律にしようとしたのではないか。生き字引であることはそれでも可能であるが、歩く法律となるのはとうてい我慢がならない。今まではごく些末な問題にもきわめて丁寧に返答してきた私がこのころから上司に寄せた手紙には法律の細部にとらわれるべきでないことをあれこれ言い立て、「ひとたび法の精神さえ学びえたならば、あれやこれやの細かなことは一気に解決できるものだ。」など堂々と言い立てたこともあった。また大学では法科の講義はおろそかにして、人文・歴史に心を寄せて、そろそろ面白みも分かる域に達してきた。

 上官はもともと意のままに使うことのできる機械を作ろうとしたのだろう。独自の考えを抱いて、人並みでない偉そうな顔つきをした男をどうしてこころよく思うはずがあるだろうか。あやうかったのは、そのころの私の地位であった。しかしながら、こればかりではまだ私の地位をくつがえすには足りなかったのだが、日ごろベルリンの留学生のうちで、ある勢力あるグループと私との間におもしろくない関係があり、その人たちは私を嫉妬し疑い、またついに私にぬれぎぬを着せて陥れるに至った。しかし、これとても理由なくてのことではなかった。

 その人たちは私が一緒にビールのジョッキを取り上げず、玉突きのキューも取らないのを、頑固で一途な心と自制の力のせいにして、一方ではあざけり、又一方では嫉妬しもしただろう。しかし、これは私を知らないからだった。

 ああ、この理由は、自分自身さえ気づかなかったものを、どうして他人に知られるはずがあったろうか。私の心はあの合歓という木の葉に似て、物が触れれば縮んで避けようとする処女に似ていた。私が幼いころから年長者の教えを守って、学問の道をたどった時も、仕官の道を歩んできた時も、どれも勇気があって精進してきたのではない。継続努力の勉強の力と見えたのも、すべて自分を欺き、人までも欺いたのであり、ただ人がたどらせた道を一筋にたどっただけなのだ。他の方面に心が乱れなかったのは、ほかのものを捨ててかえりみないほどの気概があったからではなく、ただもうほかのものを恐れて自分の手足を自分でしばっていただけなのだ。故国を出る前も、自分が前途有望な人物であることを疑わず、また自分がいかなる困難にも耐えられる意志の持ち主だと深く信じていた。ああ、それもつかのまのことだったのだ。船が横浜を離れるまでは、あっぱれ豪傑よと思っていた自分が、こらえきれない涙に思わずハンカチを濡らしたのをわれながら不思議なことと思ったが、これこそがまさに自分の本性だったのだ。この心は生まれつきなのであろうか、それとも、父を早く失って母の手に育てられたことによって生じたのだろうか。

 彼らがあざけるのはもとよりしかたがない。しかし、嫉妬するのは愚かなことではないか。この弱く、かわいそうな心を。

 赤く白く顔を塗って、きらびやかな色のドレスを身にまとい、酒場に座して客を呼ぶ女たちを見ても、そこに行って共にふざける勇気なく、また山高帽をかぶり、眼鏡で鼻を挟むようにして、プロシアでは貴族まがいの鼻音でしゃべる洒落者を見かけても、これと遊び回る勇気もない。これらの勇気がないので、あの活発な同郷人たちと交際しようもない。この交際下手のために、彼らは単に私をあざけり、または嫉妬するにとどまらず、さらには私をうたがったり、ねたんだりするに至った。これこそ、私が無実の罪を負って、わずかの間にはかりしれない苦難を味わい尽くすきっかけとなったものなのだった。

 ④ある日の夕暮れのこと、私は動物公園を散歩して、ウンテル・デン・リンデンを通り過ぎ、モンビシュウ通りの自分の下宿に帰ろうとして、クロステル小路の古い教会の前まで来ていた。

 大都会の灯火の海を渡って、このクロステルの狭く薄暗い横丁に入ると、階上の手すりに干したシーツやシャツなども取り込まずにいる人家や、頬ひげを伸ばしたユダヤ教徒の年寄りが前に佇んでいる居酒屋、また一つの階段が屋上まで通じ、もう一つの階段が穴蔵住まいの鍛冶屋に通じている貸家などがある。それらの建物に向かい合って凹字の形に引っ込んで建っている三百年前の遺跡と思えるこの古寺を眺めるたびに、我を忘れてうっとりと立ち尽くしたことはこれまで幾度あったろう。

 丁度この場所を通り過ぎようとするとき、教会の閉ざされた門扉にもたれたまま、声をおさえて泣いている一人の少女を見た。年のころは十六七であろうか。頭にかぶったスカーフからもれ出ている髪は淡い金色で、着ている衣服は垢じみたり汚れている感じもない。私の足音に驚かされてふりかえった顔は・・・私には詩人の筆力もないのでここに写すことができない。この青く清らかで、もの問いたげに悲しみを帯び、なかば涙の露を宿した長いまつげにおおわれたその眼は、どうしてただ一度こちらを見たばかりで、この用心深い私の心の底までつきとおしたのだろうか。

 彼女は思いがけない深い悲しみに遭って、あとさきの事情を顧みる余裕もなく、ここに立って泣いているのだろうか。いつもの私の臆病な心も憐れみの情がうち勝って、私はふとそばに寄った。

「どうして泣いていらっしゃるのですか。こちらにわずらわしく面倒な知り合いもない他国の者のほうが、時によってはかえってお力を貸しやすいかもしれません。」

 思わず言葉をかけたが、われながら自分の大胆なのにあきれてしまった。

 彼女は驚いてこの黄色人の顔を見つめていたが、私のまじめな気持ちが顔色にも表れていたのであろう。

「あなたは良い人だと思います。あの人のようにむごくはないでしょう。また私の母のようにも。」

 しばらくとだえていた涙は、また泉のようにあふれて愛らしい頬を流れ落ちた。

「私をお救いくださいませ、私が恥しらずの人間になってしまうのを。母は私があの人の言葉に従わないからといって、私をぶちました。父は死んだのです。明日はお葬式を出さなければならないのに、家には一銭のたくわえもないのです。」

 あとはすすり泣きの声ばかり。私の目はこのうつむいた少女のふるえるうなじにばかり注がれていた。

「あなたのお家までお送りしましょうから、まず気持ちを落ち着けなさい。泣く声を人に聞かせるものではありません。ここは往来なのですから。」

 彼女は話をするうちに、知らず知らず私の肩に身をよせていたが、この時ふと頭をあげ、はじめて私を見たかのように、恥じて私のかたわらを飛びのいた。

 人に見られるのを避けて足早に行く少女のあとについて教会の筋向かいの大きな戸を入ると、ひび割れた石の階段がある。これを昇って四階目にくると、腰を曲げてくぐれるほどの戸がある。少女は、錆びた針金の先をねじ曲げて作った把手に手をかけて強く引いた。中でしわがれた老人の声がして「誰だい。」と聞く。

「エリスが帰りました。」と答えるほどもなく、戸を乱暴に開いたのは、半ば白髪の、人相は悪くないが貧苦のあとを眉間の深い皺に刻み込んでいる老女で、古ぼけたネルの上着に、汚れた上ばきを履いていた。エリスが私に会釈して中に入るのを待ちかねたように、戸を激しく閉てきった。

 私はしばらく呆然として立っていたが、ふとランプの光に透かして戸を見ると、エルンスト・ワイゲルトとペンキで書いた表札の下に仕立物師と注記してある。これが亡くなったという少女の父親の名前なのだろう。戸の内では言い争うような声が聞こえていたが、また静かになって、戸が再び開いた。先ほどの老婦がまた現れ、今度は丁寧に自分の非礼のふるまいを詫び、私を中へ招き入れた。中はすぐに台所で、右手の低い窓には真っ白に洗った麻布を掛けてある。左手には粗末に積み上げたレンガのかまどがある。正面の一室は戸が半分開いているが、中には白布をおおった寝台がある。横たわっているのは亡くなった人なのであろう。

 かまどの横の戸を開いて私を案内した。この場所はいわゆる屋根裏部屋の街路に面した一室なので、天井もない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がっている梁を壁紙で張ってある下の、立てば頭がつかえそうなところに寝床がある。中央にある机には美しい敷物を掛けて、上には書物一、二冊とアルバムを並べ、陶器の花瓶にはここに似合わしくない高価な花束を活けている。そのそばに少女はきまりわるげに立っていた。

 彼女はたいへん美しい。乳白色の顔は灯火に映じてかすかに赤みがさしていた。手足がか細くすらりとしているのは、貧しい家の女性らしくない。老婆が部屋を出た後、少女は少し下町風の訛りのある言葉で語った。

「どうか許してください。あなたをここまでご案内した心ないふるまいを。あなたはきっと良い方なのでしょう。私をまさかお憎みにはならないでしょう。父の葬儀は明日に迫っているというのに、頼りに思っていたシャウムベルヒが、・・そう、あなたはご存じないでしょう。彼はヴィクトリア座の支配人です。彼に雇われてから、早くも二年になるので、ことなく私たちを助けてくれるものと思っていたのに、人の苦しさにつけこんで、身勝手な言いがかりをつけてくるとは。・・どうか、私をお救いください。お金は少ない給金の中から振り分けてお返し致します。たとえこの私は食べなくても。それもできないならば、母の言葉に従うしかありません……。」 

 彼女は涙ぐんで身をふるわせた。その見上げた目には、人にいやとは言わせないなまめかしい愛らしさがあった。この目の働きは意識してするのか、それとも無意識のだろうか。

 ポケットには二、三マルクの銀貨があったが、それで用が足りるはずもないので、私は懐中時計をはずして机の上に置いた。

「これでこの一時の急場をしのいでください。質屋の使いがモンビシュウ街三番地の太田まで訪ねてきたときには、代金を支払うから。」

 少女は驚き感銘を受けた様子で、私が別れのために差し出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲にそそいだ。

 ⑤ああ、何という不運だったろう。この恩に感謝しようとして自分から私の下宿を訪ねてきた少女は、ショーペンハウアーやシラーの著書に囲まれて一日中座って読書する私の窓辺に、一輪の美しい花を咲かせたのだった。この時からはじめて、私と少女との交際は次第に度重なっていき、在留の日本人たちにまで知られることになったので、彼らは早合点にも私が踊り子たちの間に色を漁り歩くと考えた。私たち二人の間には、まだ幼く無邪気な喜びだけがあったというのに。

 ここにその名前を出すのははばかられるが、同国人の中に事を荒立てて喜ぶ者があり、私が足しげく劇場に出入りして女優と交際するということを上官まで報告した。ただでさえ私の学問がずいぶん違った道に行くのを苦々しく思っていた上官は、遂にその一件を公使館に伝え、私を罷免・解職してしまった。公使がこの命令を伝えるとき、私に向かって言うには、「貴方がもしすぐに帰国するならば旅費は支給しようが、もしまだ当地に留まるのであれば公費の助成を仰ぐことは出来ない。」ということであった。私は一週間の猶予を願って、あれこれ思い悩むうちに、生涯でもっとも悲痛を覚えさせた二通の書状に接した。この二通はほとんど同時に出したものだが、一通は母の自筆、もう一通は親戚の者が母の死を、私がこのうえなく慕う母の死を知らせてきた手紙であった。私は母の手紙の文言をここに繰り返し記すことができない。涙がこみ上げてきて筆の運びを妨げるからだ。

 私とエリスとの交際は、この時までははたから見るより潔白だった。彼女は父親が貧しいために十分な教育を受けず、十五才の時舞踏の教師の募集に応じて、この卑しい仕事を教えられ、レッスンが終了したあとはヴィクトリア座に出て、今では場中第二位の地位を占めていた。しかし、作家ハックレンデルが現代の奴隷といったごとく、はかないのは踊り子の身の上であった。少ない給金で束縛され、昼は稽古、夜は舞台と休みなく酷使され、劇場の化粧部屋に入れば白粉もつけ、華美な衣装もまとうけれども、場外に出れば、自分ひとりの衣食も足りないほどであるから、まして親兄弟を養う場合などその苦労はどれほどのことであろう。であるから、彼女たちの仲間で、賎しいかぎりの仕事に堕ちない者は少なくないということだ。エリスがこれを免れてきたのは、おとなしい性質と、気強く何物にも屈しない父親の保護によっていたのだ。彼女は幼時から本を読むことはそれなりに好きな方であったが、手に入るのは品のないコルポルタージュと呼ばれる貸本屋の小説ばかりだったが、私と知り合ったころから、私の貸し与える本を読むことを覚えて、次第にその面白みを知り、言葉の訛りも改め、私に宛てた手紙にもほどなく誤字が少なくなった。そうであるので、私たち二人の間にはまず師弟の交際が生まれたのだった。

 私の突然の免職を聞いたとき、彼女は真っ青になった。彼女のことが関係していたことは隠したが、彼女は私に向かい、母親にはこのことを秘密にしていてほしいと言った。これは、私が留学費用を失ったことを母親が知って私を疎かにするを恐れたからだった。

 ああ、ここにくわしく書く必要もないことだが、私の彼女を愛する気持ちが急に強くなって、とうとう離れられない仲となったのはこの時であった。一身の大事を前にして、まことに生き残るか滅びるかという重大な瀬戸際であるのに、このような行いがあったのを不審に思い、また非難する人もあろうが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて出合ったときから浅くはなかったうえに、いま私の不運を憐れみ、また別離の悲しみに寂しくうつむき沈んだ顔に、髪の毛がほどけて垂れかかっている、その美しい、いじらしい姿は、悲痛の極に平常心を失った私の脳髄を貫いて、心を奪われてうっとりする間にここに至ったのをどうしようもなかった。

 ⑥公使に約束した日限も近づき、私の運命の時は迫った。このまま国に帰れば、学成らずして汚名を負ったこの身が再び浮かぶことはあるまい。しかし、ここに滞留するには学資を得る手段がなかった。

 この時私を助けたのは、いま私とともに帰国の途に付いている者の一人、相沢謙吉である。彼はその当時東京にいて、すでに天方伯爵の秘書官であったが、私の免官の記事が官報に載ったのを見て、ある新聞の編集長を説いて、私を社の通信員となし、ベルリンに留まって政治・学芸の記事などを報道させることとしたのだった。

 社の報酬は言うに足りない額だったが、下宿を替え、昼食をとるレストランをも変えたなら、細々ながら生活はしていかれるだろう。あれこれ思案するうちに、誠意をあらわして私に助けてくれたのはエリスだった。彼女はどのようにして母親を説得したのだろうか、私は彼ら親子の家に身を寄せることとなり、エリスと私とはいつからとなく、わずかな収入を合わせて、苦しい中にも楽しい月日を過ごした。

 朝食のコーヒーをすませると、彼女は稽古に行き、そうでない日は家にいて、私はキヨオニヒ街の間口が狭く奥行きの長い新聞閲覧所に出掛け、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと材料を集める。天井の窓から採光を行っている部屋で、定職のない若者や、多くもない金を人に貸して自分は遊び暮らしている老人、取引の合間を盗んで憩いを求める商人などと隣り合って、冷たい石のテーブルの上で、せわしなく筆を走らせ、給仕の少女が運んでくる一杯のコーヒーが冷めるのもかまわず、細長い板切れに挟んだ新聞を何種類も掛け連ねた脇の壁にしきりに往来する日本人を、知らない人は何と見たことだろう。また、一時近くにもなると、稽古に行った日には帰り道に寄って、私と一緒に店を出る、この格別に軽やかな、まるで掌の上で舞うことさえできそうな少女を、不たであろう。思議がって見送る人もあっ

 学問は荒れ衰えてしまった。屋根裏部屋の小さな灯火がかすかに燃え、エリスが劇場から帰って、椅子に腰かけ縫い物などをするそばの机で、私は新聞の原稿を書いた。むかし、法令の条目の枯れ葉を紙の上に掻き寄せていたのとはちがい、今はいきいきと活動している政界の動静や、文芸・美術に関連した新現象の批評など、いろいろと結びあわせ、力の及ぶかぎり、ビョルネよりはむしろハイネを学んで構想を立て、さまざまの文章を記した中でも、皇帝ヴィルヘルム一世に続いてフレデリック三世の崩御があり、新帝の即位、ビスマルク侯爵の進退はどうなるかなどのことについては、とくに詳細な報告をしたのだった。であるから、この頃からは思っていたよりも忙しく、多くもない蔵書をひもといて以前の勉強を進めることも難しく、大学の学籍はまだ削られないものの、授業料を納めることも困難なので、たった一つにした講義でさえ、聴講に出かけることはまれであった。

 学問は荒れ衰えてしまった。しかし、私は別の意味で一種の見識を深めた。それは何かといえば、いったい民間の学問というものが広まっいてるのは、欧州諸国の中でもドイツにまさるものはあるまい。何百種という新聞雑誌に散見する議論には、大層高尚なものも多いのだが、私は通信員となった日から、かつて大学に足しげく通っていたころに養った見識によって、読んではまた読み、写してはまた写すうちに、今まで一筋の道だけを走っていた知識は、おのずから総合的になって、同郷の留学生などの大半が夢にも知らぬ境地に到達した。彼らの仲間には、ドイツの新聞の社説すら好くは読めない者がいるというのにだ。

 Ⅱへ続く

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