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和泉式部日記(口語訳)Ⅴ

by 杉篁庵庵主

十三、宮の邸へ

 翌朝早く、宮から、

  「冬の夜の恋しきことにめもあはで衣かた敷き明けぞしにける

〔冬の夜の間、あなたが恋しいせいで目もつむらないで、あなたにお逢いもできず衣の袖を片方しいた独り寝のままで夜が明けてしいました。〕」

とありますので、式部はお返しに、「ほんとうにおっしゃるとおり、

  冬の夜のめさへ氷にとぢられてあかしがたきを明かしつるかな

〔冬の夜の寒さで目さえ凍る涙で閉じられて開けるのがつらく、明かし難い夜を明かしてしまったことです。〕」

などと詠んでいましたが、いつものようにこうしたとりとめもない歌でものさびしさを慰めながら日々を過ごすのは、なんとも甲斐もない虚しいことではなかったでしょうか。

 宮はどうお思いになったのでしょうか、心細いことばかりをおっしゃられて、「やはり私はこの世の中(あなたとの情愛)を長く通すことはできないのでしょうか。」と記してありますので、

  「くれ竹の世々の古ごと思ほゆる昔語りはわれのみやせむ

〔呉竹の節(よ)ならぬ世々(よよ)に伝わる古い恋物語が思い起こされます、宮と別れた後で、宮との思い出を私ひとりが昔語りするのでしょうか。〕」

と式部が申し上げますと、

  「くれ竹のうきふししげき世の中にあらじとぞ思ふしばしばかりも

〔呉竹の節(ふし)のように辛い節々のたくさんあるこの二人の仲ではもういたくないと思います、ほんのしばらくのあいだでも。〕」

などと詠んでこられまして、「誰にも気付かれないよう住まわせるところなどでは、住み慣れないところなので式部はきまりわるがるだろう、こちらでも聞き苦しい話だというに違いない。だが、今はもう私自身が行って連れて来よう。」とお考えになられて、十二月十八日、居待ちの月がたいそう美しい時に、宮は式部のもとにいらっしゃいました。

 いつものように宮が「さあいらっしゃい」とおっしゃいますので、式部は、いつものように今夜だけのお出かけと思って、一人で車に乗ると、「誰か侍女を連れていらっしゃい。あなたの身の回りの世話をするひとを連れて行けたら、のんびりとお話申し上げられましょう。」とおっしゃいますので、「ふだんは、数日にわたる時でもこんなふうにおっしゃったこともないのに、もしかしたらそのままお邸にとお思いなのであろうか。」と思って、侍女を一人連れて行きます。

 いつものところではなくて、侍女を置いても目立たなく気兼ねないようにしつらえてあります。やはりそうだったと式部は思って、「どうして目立つようにわざわざお邸に上がることがあろう、かえって、いつのまに上がったのだろうと、みんなが思ってくれたほうがよい。」などと思ううちに、夜が明けましたので、櫛の入った化粧箱などを取りに遣わします。

 宮が部屋に入っておいでなので、しばらく目立たないようにこちらの格子は上げないでいます。暗いのは恐ろしくはありませんが、うっとうしい気分でいますと、宮が、「今にあちらの北の対屋にお移し申し上げましょう。この場所では外に近いので情趣がありません。」とおっしゃいますので、格子を下ろして、ひっそりと音を聞いてみますと、昼間は、女房たちや父・冷泉院にお仕えする殿上人らが参り集ってきます。「どうしてこのままここに置いておけましょう。また、身近に私の日常を見たらどんなにがっかりなさるだろう、と思うとつらいのです。」とおっしゃいますので、「私も近くで見られたらがっかりされるかもしれないと思っています。」と申し上げますと、宮はお笑いになって、「まじめなはなし、夜などに私があちらにいるときはお気をつけください。とんでもないやからが興味本位にあなたを覗き見たりしたら大変です。もうしばらくしたら、例の宣旨の乳母のいる離れにでもおいでになってごらんなさい。めったなことでは、そこには誰も寄って来ませんから。そこにも逢いにまいります。」などとおっしゃいます。

 二日ほどして、宮が北の対屋に式部を連れていらっしゃることになりましたので、お邸の侍女たちはびっくりして、北の方に報告申し上げますと、「こんなことがないときでさえ、宮の振る舞いは見苦しかったけれど、なんら高貴な人でもないのに、こんなことをなさって。」と北の方はおっしゃり、「格別のご寵愛があるからこそひそかに連れていらしたのだろう。」とお思いになるにつけても、得心もできず、いつもよりもご不快でいらっしゃいます。一方、宮も当惑なさって、しばらくは北の方のもとにはいらっしゃいませんで、家の人々の噂も聞き苦しく、また北の方はじめ人々の様子も辛いので、もっぱら式部のもとにいらっしゃいました。

 北の方が宮に、「こういうことがあると聞きますが、どうしておっしゃってくださらないのですか。私がお止め申し上げられることでもありません。ほんとにこのように我が身が人並みの扱いでなく笑いの種になって恥ずかしくたまらないのです。」と泣きながらお話し申し上げなさいましたので、「侍女を召し使おうとするのに、あなたにお心当たりがないはずはありません。あなたのご機嫌が悪いのにつれて、侍女の中将などが私をうとましく思っているのが不快なので、髪などを梳かせようと思って呼んだのです。こちらでも呼んでお使いなさい。」などと宮が北の方に申し上げなさいますので、北の方は、ひどく不愉快にお思いになりながらも、それ以上は何もおっしゃいません。

 こうして数日立つうちに、式部はお仕えしなれて、昼でも宮のお近くにお控えします。髪を整えて差し上げたりしますから、宮はいろいろにお使いになさいまして、少しも宮の前から遠ざけなさいません。宮が北の方のお部屋に足をお運びなさることもまれになってゆきます。一方、北の方が思い嘆きなさることはこのうえありません。

十四、北の方の退去

 年が変わって正月元日、冷泉院の拝礼の式に、朝臣がたが数の限りを尽くして参院なさいます。宮も列席されているそのお姿を拝見しますと、たいそう若々しくてお美しく、多くの貴族の方々以上に優れていらっしゃいます。このお姿につけて、自分のみすぼらしい身分がきまりわるいと式部には感じられます。

 北の方付きの女房たちが縁に出て座って見物していますが、ご列席の方々を見ずに、まず「噂の式部を見よう」と明かり障子に穴を開けて大騒ぎしていますのは、ひどく見苦しいことではありました。

 日が暮れましたので、行事がみな終わりまして、宮は冷泉院の南院にお入りになりました。お見送りにきて公卿方が数の限りを尽くしておすわりになられて、管絃のお遊びがあります。そのたいそう趣き深いのにつけても、式部にはものさみしくわびしかった自邸での暮らしがまず思い出されます。

 こうして式部が宮のお邸でお仕え申し上げていますうちに、身分の低い下仕えの召使いたちの中でも、聞き苦しいことをいうのを宮はお聞きになられ、「こんなふうに北の方がお思いになったりおっしゃったりしてよいはずはない。あまりにひどい。」と不愉快に思われましたので、北の方のお部屋にいらっしゃることもまれになっていきます。式部は、自分のせいでこんな状態にあるのをたいそうきまりわるく、いたたまれなく思われますが、どうしょうもないと、ただひたすら宮がとりはからいなさるのにしたがって、宮にお仕えしています。

 北の方の姉君は、東宮の女御としてお仕えなさっています。その方が、実家に下がっていらっしゃいます時でしたが、お手紙が北の方に届きます。「何とかしてこちらにいらっしゃい。最近、人の噂になっている話は事実なのですか。あなただけでなく私までも人並み以下に扱われているように思われます。夜の内にこちらにいらっしゃい。」とありますので、北の方は、これほどのことでなくてさえ人は噂するものものを、ましてどんなことが言われていることかとお思いになられると、たいそうつらくて、お返事に、「お手紙いただきました。いつも思い通りにはいかない男女の仲ですが、最近は実際に見苦しいことまでおこっております。ほんのわずかのあいだでも、姉君のもとにおうかがいして、若宮様たちのお顔を拝見申し上げて、心を慰めたいと存じます。迎えをおよこしください。ここにいるよりは、つまらない話を耳にすることはないでしょうと思われまして。」などと申し上げなされて、実家に帰るのに必要な調度類をまとめさせなさいます。

 北の方は、見苦しくきたならしい所を掃除させなされて、「しばらく里のもとにいるつもりです。このままここに私がいても、おもしろくなく、宮様にしても私のもとに足をお運びになられないこともご負担でいらっしゃるでしょうから。」とおっしゃいますと、周りの女房たちが口々に、「たいへん驚きあきれたことです。世間の人々が変な噂であざけり申し上げておりますよ、」「あの女がこちらに参りましたことについても、宮様が足をお運びになってお迎えになったそうなのですが、まったく目もあてられないありさまです、」「あのお部屋にあの女はいるのでしょうよ。宮様は、昼間っから三度も四度も足を運んでいらっしゃるそうです、」「ほんとうにちゃんと宮を懲らしめ申し上げなさいませ。宮様があまりに北の方様をないがしろになさっていらっしゃるから、」などと一斉に憎まれぐちを言いますので、それを聞く北の方はお心の中でたいそうつらくお感じになられます。

 「もうどうでもよい、近くに見苦しいこと聞き苦しいことさえなければ。」と 北の方は お思いになり、「お迎えに来てください。」と姉君に申し上げなさいます。やがて、北の方のお兄様にあたられる方が、「女御様からのお迎えです。」と宮に申し入れなさいますので、「そういうことか。」と宮はお思いになられます。

 北の方の乳母が部屋にある見苦しいものを掃除させているという話を聞いて、女房の宣旨が宮に、「こんなふうにして北の方様はお移りになられるようです。決して、ついちょっとという様子ではありません。東宮様(宮のお兄様)のお耳に入ると具合の悪い話でもあります。いらっしゃって、お止め申し上げてください」と騒がしく申し上げていますのを見るにつけて、式部はお気の毒で辛いのですけれど、自分からあれこれ口出ししてよいものでもないので、そのまま黙って聞いてお仕えしておりました。聞きづらい話の出ている間はしばらく退出していたいとは思いますが、それもやはり情けないようなので、そのままお仕えしておりましたが、それにつけてもやはり物思いの絶えない我が身だと嘆かわしく思うのでした。

 宮が北の方のお部屋にお入りになると、北の方は、何気ない様子をしていらっしゃいます。「本当ですか、姉君である女御様のもとへいらっしゃると聞きましたが。どうして車を出すようにと私におっしゃらなかったのでしょうか。」と宮が北の方に申し上げなさいますと、北の方は「別にどうということではありません。先方から車をよこすから、とありましたので。」とだけいって後はなにもお話しなさりません。

  宮の北の方のお手紙とか、北の方の姉君の女御様のお手紙の言葉などは、実際はこのままではないでしょう。想像の作り書きのようである、と原本には書いてあります。      

                      ・完・

  和泉式部日記〔口語訳〕完

その後のこと 

 こうして日記は式部が宮の邸に行ったところで終わります。

 宮の邸での生活がどのようなものであったか。その喜びと華やかさは語られていません。

 また、それがこの日記を一層引き立てて面白くしています。

 しかし、実際は彼女のこの幸せも長くは続きはしませんでした。四年ほどで帥宮は二七歳の若さで病没します。残された彼女のはげしい慟哭は百首を超える哀傷歌に充分語られていて、それを読者も知っているということだったのでしょう。

 この物語は帥宮と式部の恋の賛歌と哀悼の記録なのです。

 式部の親王哀悼の歌を拾ってみます。

今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりの憂きこともがな

【帥宮に先立たれた今はただ、「そう、そんなことがあった」と楽しいことを思い出しては泣くばかりで、いっそ宮のことを忘れたくなる程に辛い思い出があればよかったのにと思われます。】

捨て果てむと思ふさへこそかなしけれ君に馴れにし我が身とおもへば

【捨て切ってしまおうと、そう思うことさえ切ないのです。あの人に馴染んだ我が身だと思いますと。】

かたらひし声ぞ恋しき俤はありしそながら物も言はねば

【語り合った声こそが恋しいことです。面影は生きていた時そのままですが、何も言ってくれませんので。】

はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかでぬる我は人かは

【儚いものだと、まざまざと思い知った夢の如き世ですのに、この世から目を醒まさず眠りをむさぼっている私は人と言えましょうか。】

ひたすらに別れし人のいかなれば胸にとまれる心地のみする

【まったく別世界へ逝ってしまった人が、どうしてか私の胸にいつまでも留まっている心地がしてなりません。】

君をまたかく見てしがなはかなくて去年(こぞ)は消えにし雪も降るめり

【あなたを再びこんなふうに見てみたいのです。はかなくて去年には消えてしまった雪も年が巡ればまた降るようですから。】

なき人のくる夜ときけど君もなし我がすむ宿や玉なきの里

【亡き人が訪れる夜だと聞きますけれど、あなたもいらっしゃいません。私の住まいは「魂無きの里」なのでしょうか。】

 親王が二七歳の若さで男の子一人(後、出家して永覚と名乗りました)を残して亡くなったとき、式部は三十歳でした。

 喪が明けて三一歳のとき道長から声がかかり、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の女)のもとに出仕します。成人していた娘の小式部内侍も一緒だったでしょう。その華やかなサロンは源氏物語そのままで、紫式部や伊勢大輔・赤染衛門も仕えていました。この折のことは、また別の物語でしょう。

 式部は三三歳のとき、宮仕えが機縁となって道長の家臣(家司)で五十歳を過ぎた穏和な藤原保昌と再婚し、保昌について大和や丹後に赴きました。

 やっと平穏な日常に身を置くことの出来た式部でしたが、四八歳の時には愛する一人娘の小式部に先立たれるという不幸に出会います。

 没年は不明(五七~五九歳)ですが最後まで保昌と共に暮らしたのではないでしょうか。

 なお、式部を初代の住職とする京都の誠心院では三月二一日に和泉式部忌の法要があります。

和泉式部関連年表

 年号(西暦) 数え齢  出来事

貞元元 (976)     居貞親王(三条天皇)生まれる(冷泉院:超子

貞元2 (977)     為尊親王(弾正宮)生まれる(冷泉院:超子)

天元元 (978) 1歳  和泉式部・前後3~4年に生まれる(大江雅致:平保衡女)

天元3 (980) 3歳  6月懐仁親王(一条天皇)生まれる(円融天皇:詮子)

天元4 (981) 4歳  敦道親王(帥宮)生まれる(冷泉院:超子)

天元5 (982) 5歳  1月、冷泉院女御超子 薨去

永観2 (984) 7歳  8月、花山天皇即位

寛和2 (986) 9歳  6月、一条天皇即位、

           7月、居貞親王元服、立太子

永祚元 (989) 12歳 11月、為尊親王 元服

正暦元 (990) 13歳 7月、藤原兼家(62歳)薨去

正暦2 (991) 14歳 〔女+成〕子(藤原済時女)東宮妃として入内

正暦3 (992) 15歳 為尊親王 九の御方(藤原伊尹女)と結婚

正暦4 (993) 16歳 2月、敦道親王 元服

           敦道親王 藤原道隆三女と結婚

長徳2 (996) 19歳 和泉式部、橘道貞と結婚

長徳3 (997) 20歳 小式部 生まれる(橘道貞:和泉式部)

長保元 (999) 22歳 夫・道貞 和泉守に任ぜられる

           11月、彰子(藤原道長女)入内

長保2(1000) 23歳 12月、皇后定子(24歳)崩御

長保3(1001) 24歳 弾正宮との恋はこの頃

長保4(1002) 25歳 6月13日、弾正宮(26歳)薨去

長保5(1003) 26歳 4月十余日、帥宮と、橘の贈答歌。帥宮と契る。

           12月10日、帥宮の南院に入る

寛弘元(1004) 27歳 1月、帥宮妃(藤原済時女で東宮妃)南院を出る

           2月、藤原公任の白河院で帥宮とお花見

           3月、道貞 陸奥守に任ぜられ赴任

寛弘2(1005) 28歳 賀茂祭を帥宮の車に同乗して見学

寛弘2(1005) 29歳 石蔵宮(永覚)生まれる(帥宮:和泉式部)

寛弘4(1007) 30歳 10月2日、帥宮(27歳)薨去

           性空上人没

寛弘5(1008) 31歳 2月8日、花山院(41歳)崩御

           和泉式部、中宮彰子に出仕~1011

寛弘7(1010) 33歳 和泉式部、藤原保昌(20歳ほど年上)と結婚

寛弘8(1011) 34歳 6月、一条天皇(32歳)崩御。三条天皇即位

           10月、冷泉院(62歳)崩御

長和5(1016) 39歳 2月、後一条天皇即位

           4月、橘道貞没

寛仁元(1017) 40歳 5月、三条院(42歳)崩御

寛仁2(1018) 41歳 静円 生まれる(藤原教通:小式部)

万寿2(1025) 48歳 11月、頼仁 生まれる(藤原公成:小式部)

           11月、小式部(28歳)没

万寿3(1026) 49歳 1月、太皇太后彰子 落飾して上東門院と号する

万寿4(1027) 50歳 10月、式部、皇太后妍子の七々日供養に歌を献上

           12月、藤原道長(62)、藤原行成(56)薨去

長元9(1036)(59歳) 9月、藤原保昌(79歳)没

和泉式部の没年は不明、一説には、長元7年(1034年)頃

式部を初代の住職とする京都の誠心院では三月二一日に和泉式部忌の法要がある。

 あとがき

 二〇〇八年(平成二〇)の暮れに、「来年は丑かと思いながら、うしは『憂し』に通ずといやな言葉が連想されたのは、この世情によりましょうか。それで、『呉竹の憂き節繁き世の中に(思うようにならずつらいことの多いこの世の中)』の句を思い出したのでした。しかしこれが、和泉式部日記にあると探し出すのに時間がかかりました。節の枕詞として呉竹があるのですが、年末あたりの記述ですから呉が暮れに掛けてあると思っていたらしい。」とブログに書いた後、テキストをアップし更に欲を出して訳も試みていました。「プログ製本サービス」というものがあることを知って、一時ブログにアップし本にしてみたのですが、本にする機会に全面的に文体等手を入れました。

  平成二十二年三月 雛祭りの日。

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