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立原道造の生涯Ⅱ

by 杉篁庵庵主

立原道造の生涯Ⅱ

  ―ゆうすげびとの抒情―

  詩人の出発

  (帝大時代・卒業論文提出まで)

 その村にはゆうすげといふ黄いろな花が落葉松の林のなかに、三時すぎると明るくともった。僕はそれを折って帰るのであった。

   目次

   昭和九年

    ・東大建築科入学 ・・①

    ・追分      ・・②

    ・文学観     ・・③

    ・「四季」派詩人と・・④

   昭和十年

    ・詩人の開花   ・・⑤

    ・追分の夏    ・・⑥

    ・十四行詩形の獲得・・⑦

   昭和十一年 独自世界の形成 

    ・メリメの歌   ・・⑧ 

    ・別れ      ・・⑨

    ・感傷旅行    ・・⑩ 

    ・転生      ・・⑪ 

    ・卒論「方法論」 ・・⑫

    ・周辺の人々

詩人としての出発

 一高時代、読書と詩・物語を書くことが生活の大きな位置を占めるようになり、抒情の表出は、短歌から詩へ移り変わった。

 帝大に入り、いよいよ、建築と文学とその双方に天分を発揮する。

昭和九年(1934)

東大建築科入学・村暮らし

 「寛大仁慈なる帝国大学当局は僕の新しい洋服の寸法をとらせるべく洋服屋をよこした」のは昭和九年(1934)である。道造は工学部建築科に入学する。天文学から建築にうつるについてはどんな事情があったのか解らない。高尾亮一の意見によるところが多いという。

 入学して以降の大学での友人は、小場晴夫、柴岡亥佐雄、田口正、一級下では丹下健三らがいる。

 自宅居室を屋根裏部屋に移した。( 立原記念館の三階には、道造がこの屋根裏の寝室兼勉強部屋で使っていた机が展示してある)

 六月上旬に同人誌「偽畫(画)」を創刊する。同人は江藤、猪野、沢西健、立原の四人である。立原は、詩人の出てくる物語「間奏曲」を書いている。これは後に書かれる「鮎の歌」その他の詩入り散文の先駆けのようなもので、ストーリーのない「眠りのよう」に忘れてしまいそうな小説である。

 なお、「偽画」は同年度中に三号まで出て、終刊している。二号は十月。三号は二月の発行であった。それぞれに一遍ずつの物語を発表している。「子供の話」「メリメの歌第一章」である。「メリメの歌」は散文詩小説であるが、これについては後で触れる。

 この頃、津村信夫と知り合って、同人誌「四人」をもらったりしている。

追分

 七月十日頃、信濃追分に赴き、油屋に泊まっての村ぐらしは八月二十一日まで続いた。このさびしい中山道と北国街道の分かれ道にある追分という宿場町は「軽井沢、沓掛、小諸の近くにあり乍ら、衰へ」た所で、「20軒位、昔お女郎屋をしてゐた家があり、そして一軒の郵便局も電話のある家もお菓子屋もない。追分の駅まで二〇分、沓掛へは一里。ヘンピで、景色も物寂びている」のだった。

 追分には、堀辰雄、近藤武夫が、軽井沢には、室生犀星がいた。

 この一月半程の夏の暮らしは、道造にとって良き暮らしであったばかりでなく、彼の人生に大きな影響を与えることとなった。

 都会育ちの彼にとっては、自然の中でぼんやりしているだけでも、彼には詩や物語を作り出す糧となったようで、東京に帰ってからか、その追分を詩にしている。それを見ると、この追分に来たことは彼の抒情に素材の上だけでなく大きな変化をもたらしている。

 爆発しそうな浅間の噴煙を眺め、泡雲幻夢童女、花幻善童女などというかなしい碑銘をもったお女郎の墓に花を手向け、山で雲を眺め、花や小鳥や虫や子供たちと遊び、リルケや藤村の詩を愛唱し、レルモントフ、プーシュキン、ザイツェフ、ポオ、ゴオゴリ、バルザック、犀星を読み、夢の貝殻細工のような物語をいくつか書くという生活であった。こうした中で、快く発酵し、芽を出す詩情があった。

 この夏のうちに書いた「子供の話」を「偽画」の二号に発表する。これは一人の子供を父の死から彼自らの死までをうたった四編の散文詩からなる。この物語的散文詩(散文詩的物語)は、後に「メリメの歌」に発展していく前段といえよう。

文学観

 この頃の彼の芸術(文学)についての考えを、杉浦への書簡(九月二十四日)から見ておく。

「僕はめんどうくさい芸術、まはりくどい芸術をにくむ。誰でもわかり、何でもないたのしむことの出来る芸術を愛す。……めんどくさくないといふのはいちばん大切なり。……まわりくどくなく、よむとぢかにふれなければだめなり。生活にぎりぎりにふれてゐるといふことは、まわりくどくなくすべし。……一体言葉といふものは、どんな愚かな営みであるか。この愚か者は、君に向かっていふ言葉と、をわい屋に向かっていふ言葉と、同じものであるくせにぢがってゐるなり。ぎりぎりに僕にふれてゐる言葉でも、をわい屋には空疎なわけのわからない言葉となってしまうなり。……自分の生活に於いて、どんづまりのところで、うたひたいといふのが僕の念願なり。……芸術はそのまま僕の小使であるなり。どんづまりのところで、だらしなく音をあげる悲鳴だし、また溜め息であるなり。朔太郎の議論の後にながれてゐるいら立々しい稚純な嘆きは僕にわかるなり。……朔太郎に心を傾けてゐるから、朔太郎のうしろ側まで見て、それに同感してゐるなり。……この嘆きこそ、まわりくどくなく、議論にしろ、作品にしろ文学をとほして、心をうつのだ。」

 道造は、一高時代からリルケと犀星に心酔していたが、この書簡にあるように、この頃朔太郎の詩集を読んで共感している。

 さらに、「氷島(朔太郎詩集)」について、朔太郎は三文詩人のマスクを引き剥がした、と評し、朔太郎は抒情詩人であり、「それ故、彼は瞬間から掠奪する。統制された言葉のかはりに、手に触れる言語を受け取る天質だ。酔っぱらひのポール・ヴェルレンを見よ。朔太郎が酔っぱらひであることを思い出せ。」と他の書簡(國友宛)で書いているが、ここにも道造の詩観を見ることができよう。

「四季」派詩人としての出発

 「四季」(第一次)は季刊のものが、昭和八年に創刊されたが、春・秋の二号を出して、休刊になっていた。

 昭和九年十月、月刊として復活した(第二次 1934.10-1944.6 全81冊は昭和初期を代表する詩誌の一つである)。

 丸山薫の回想によれば、それは三好から話が出、堀、三好、丸山に津村を加えて、堀編集の季刊「四季」を月刊にしていこうということだった。そして、「予定どおりに四人を同人にして、それに立原を準同人格にして出発した。そして立原はすぐ同人になった」。この頃の立原は「丸々として愛くるしい顔をしていた津村より四つ五つ年下の、鹿のように静かなかんじのする少年とも青年ともつかぬ学生それが立原道造であった」(丸山)という。

 道造は創刊号には原稿を出さなかったが、二号(十二月号)に、「村ぐらし」「詩は」を発表する。そしてここから、道造は「四季」の人々から大きな影響を受けながら詩人立原道造として出発する。

 「村ぐらし」は夏の追分の思い出として書かれ、八つの詩編からなっている。道造の「詩情」の形成がこの追分に於いてなされた、そう見るならば「村ぐらし」はその最初の作品であり、また「信濃こひし」のうたの最初のものであった。「詩は」は十二の断章からなっていて、道造の詩についての見方を知る上で面白いものであるが、その幾篇かは、擬人化された主格の「詩」は犀星その人を指してもいる。(「詩集・田舎歌」に収録されています)

昭和十年(1935)

詩人の開花

 この年は「四季」だけでなく「未成年」「コギト」「ゆめひこ」「文芸汎論」といった同人誌・雑誌に詩や物語を書く若き詩人として開花し、転換期でもあり飛躍の年ともなった。

 また、建築科学生としての成果としては「小住宅」により辰野賞を受賞し、これ以後卒業まで3年連続で辰野賞を受賞することとなる。この辰野賞は、東京帝国大学教授で建築家としても著名な辰野金吾(1854-1919)を記念して設けられた賞で、建築学科教室におけるその年度の優秀な設計・製図に対して銅牌が贈られた。

 この年の始め、「四季」(一月号)に「初冬」という半ば自伝的な死んでゆく少年を主題にした詩を発表する。そこで「生涯の終わりになったらかなしい歌を一つだけ書いてみたいと想った。叱った人は皆かなしい気持ちの人だったので、彼には絶望が人生の理想に近かった。」とうたっている。それは彼の内部で起こった一つの夢にすぎなかったが、後に彼が味わったことを想えば、彼の歌はまた違う悲しみを宿して迫ってくる。一月八日の書簡に「僕は平和でありたいと思ってゐる。僕は夜、たくさんの夢を見る。僕は臆病だ。おそれてゐる。おそらくはいっさいのものを。僕がもし孤独のなかにゐたら。僕がもし不眠のなかにいたら。」というおそれの気持のもち方の中に「かなしい歌を一つだけ書いてみたい」という思いと共通した単に感傷といいきれないものがあるように思う。

 「未成年の時代に、三好、丸山をこえて、室生、萩原以来の日本詩の展開を示すものは、国友、立原でなければならぬ」と国友に宛てて書き、丸山に「殆んど気まぐれだけたよって詩に近くゐたと空想してゐた日を去って、この頃やっと詩のむづかしさのことがはじめてわかりだしたやうな気がして居ります。どんな風にか言ひにくいのですが、ごまかしや甘やかしになってしまふのを、大変おそれ、臆病になって居ります。……うたふといふことが小鳥であり気まぐれであるだけならばうたひたくありません。うたふということが湧いて来る源が自分自身だとつきとめてからうたひたひと思って居ります。自分だけのものをうたひたいです。この概論に捕はれて居ります。思ひなほすと、銷沈した魂の姿が見え、哀しくなります。」と、その頃の心情を伝えている。この思いは、この後の立原の詩観を形成する基盤になっている。

 五月に同人誌「偽画」を解体し、高校時代の学友を中心に「未成年」を始めた。

 創刊号に、「一日は……」を発表。二号に「風のうたった歌」を発表し、これ以降「風」を主題にしたいくつかの作品が発表され、彼の詩の主題の一つとして晩年まで持ち続けられた。彼が風と言う時、風は「詩」であり、「うたう詩人」であった。

 六月初めの生田宛の手紙で、道造は「ファスト」と「ギリシャ・ローマ神話」とリルケの「FRUHE.GEDICHTE」に心を遣い、また「花伝書」「申楽談義」「能作書」など「僕は中世にずいぶん貪欲を感じてゐるんだ。この能の理論からさかのぼって、定家の歌論に行こうかと思ってゐる。「新古今集」がいちばん勉強したいんだ。……日本の中世ばかりでなく、西洋の中世にも僕は貪欲を感じてゐる。暗黒時代なんていはれるくせに、僕はあの時代のすべての芸術に触れるたび、はげしいよろこびをおぼえる。クラブサンていふ楽器に奏される曲、また幾つもの寺院。一体僕の考えている芸術といふものは暗黒からばかり生まれるのだろうか。」と語っている。そしてまた彼の作品も「暗黒の時代」に花咲かねばならなかった!!

追分の夏

 夏になると、七月上旬、追分に出かけ、一時帰京し、また下旬追分に行く。八月下旬帰京。数日後に追分に戻りそのまま九月中旬まで滞在するという生活を送る。その行き帰りに富士見療養所の堀・矢野綾子をたずねている。

 この夏、「カラマーゾフの兄弟」を読み、終わりの「永久にさうしませう。一生涯手を取り合って行きませう!」に泣き、『誰か僕の魂を訪れたやうな気がする』とその涙を喜んでいる。また、 トルストイの「戦争と平和」、ゲーテ、チェホフ、トーマスマン、ジイド、あるいは定家、左千夫、節の歌集とその読書は多岐にわたった。音楽はモーツァルト、ベートゥベン、ヘンデル、ショパンに心惹かれていた。

 またこの夏、三好達治と詩について語った時に「韻文小説」が話題になったらしく、猪野宛の書簡で「韻文小説のやうなものをもっとつづけてみてはといふこともきいた。人がなんといってもあのやうなものはこれからさきつづけてやってみなくてはわからないだろう。といふのであった。三好さんは、メリメの歌のことをおぼえてゐたのだ。さうして感覚的な所が多いのは不満だが、試みなのだから、もっともっとつくるのがよいといわれた。」といって、「メリメの歌第二章」を秋になったからではあるが続けている。確かに韻文小説の可能性がどれだけあるものか解らなかったであろうから、立原がその試みを続けて行こうとしたことは悪いことではなかったはずなのだが……

十四行詩形の獲得

 またこの夏、八月五日と十八日に浅間山の爆発を体験する。「追分に火山灰が降り、今日、村を歩くと足はすっかり砂にまみれてしまいました。屋根は灰に蔽はれくらい色をしてゐます。かなしい気持もします」(8.19津村宛)と書いている。「ノートⅣ火山灰」もこの頃から書き始められている。

 そしてこの「火山灰ノート」には、この夏のものと思われる十四行詩の試作が見られる。

 道造がエリザベートとか鮎子とかの名で呼んだ女性たちとのめぐり合いもこの追分でのことであった。全集年譜は「エリザヘエトはたまたま追分を訪れた柴岡の遠縁にあたるひと」「鮎子はおいわけの或る由緒ある宿屋の娘さんで、東京の学校から夏休みで帰ってきていた。」とある。(エリザヘエトは別荘の少女、横田ケイ子。「あの人はそのまま黄色なゆふすげの花となり」と歌った黄色い帯の少女は関鮎子。秋に恋心を抱いた少女は今井春枝という)。

 九月下旬、追分を去る頃このエリザベートとのめぐり合いをうたって「はじめてのものに」という十四行詩を書いた。これは「四季」十二号(十一月号)に発表され、やがて、これが詩集「萓草に寄す」の冒頭の詩となる。

 「エリザベート」の名は、ドイツロマン派テーオドール・シュトルム(1817~1888)の傑作短編「みずうみ」(ラインハルトは五才年下の幼なじみエリーザベトをずっと大切に思っており、エリーザベトはラインハルトに物語をねだる。ラインハルトはエリーザベトのための物語を書いておこうとするが、それよりもエリーザベトへの思いを詩にして、こっそりと書きためることのほうが多く、故郷を離れ、本格的に学問に励むことになっても、ラインハルトの気持ちは変わらなかった。晩秋の午後、一人歩く老人、ふと呟くのは「エリーザベト」、話はそこから始まっている)によるという。ドイツ語を習い始めたときに読んだというだけでなく、彼の好みの作家であったようで、次の年の夏にはシュトルムの短編を翻訳することとなる。

 九月「コギト」(四〇号)には「風に寄せて」を発表する。(「コギト」へは丸山の紹介で神保光太郎に詩を送っている)

 この「風に寄せて」は立原自身「よい作品」と言い、二篇からなる十四行詩形(ソネット)の作品である。夏の頃から試みだしたものと考えられるこの十四行詩形の詩としては最初に発表されたもので、立原の詩の一つの完成をみた作品といっていいだろう。

 この後、道造の詩形として、この十四行詩形は、彼の詩の美しさを十分に発揮し味わわせてくれることとなる。この後、彼の発表した詩は、ほんの少数をのぞいて皆この十四行詩形である。

 十一月「未成年」(三号)に発表した物語「生涯の歌」は友人間で大好評であった。辻野久憲は「今日日本でいちばん愛する詩人はおそらくあなたでせう」といい、神保光太郎は「詩人はかかる領域を開拓してゆかなければならぬ」と、また柴岡亥佐雄は「文学の方の友だちのやうに理解は出来ないかも知れないが、君の作品を愛すること人後に落ちない」といい、白川義直は、三国峠に旅して「生涯の歌」の書き出しの句を口ずさんだという。

こうした評を立原は、嬉しげに聞いている。

 この十二月は「コギト」「文芸汎論」「四季」「椎の木」「作品」の五つの雑誌から原稿の依頼を受けている。若き詩人として世に認められた出発の年ということができる。追分の夏の思い出と共に、立原は新しい年を迎える。

 

昭和十一年(1936)独自世界の形成

 詩人として世に認められて、それを引き継ぐ出発期と見られ、立原独自の世界を形成する時期である。

 またこれまでも建築科の学生としてその方面での力を発揮していたが、いよいよ翌春の卒業を控えて、卒業論文・卒業設計に向かうと共に、夏の傷ついた心を持て余すような時であったが、その創作力が最も旺盛を極めた年でもあった。

メリメの歌

 「未成年」(四号・一月)に物語「メリメの歌・第二章」を載せ、第三章を次号に載せると書いて続けて「あのとき(第一章)空幻の花といふ言葉に心惹かれその頼りない美しさをひたすらに表現したかったのだ。だが僕はこんな予感を強ゐられてゐた、明日はこの心情はあらゆる人生に汚されて、もう望むことも出来ぬであろふと。そして…僕の心は既にその状態にゐるのだと。僕は、却てあれら空幻の花の美しさに惹かれること前より烈しい」(いろいろのこと)と書いている。この言葉は立原の詩情の本質をよく表している。また、その心情は恋愛そのものにもその振る舞いと共にみられるものでもある。

 「メリメの歌」第二章以下を書くことは彼にとってやりきれないことであったようだ。単に〆切の為に書かれたということではなしに。それは書簡や「いろいろのこと」に見られるが、その(純な心情が人生に汚される)悲しみが作品にも現れていて、それがまた美しい。

     

別れ

 そして、彼にメルヘン(「ちひさき花の歌」)を与えた少女や鮎子との別れの夏がやってくる。楽しみに待ち望んだこの年の夏の追分は、彼に悲しみを贈ったのだった。

 その哀しみが美しいソネット(十四行詩)として、物語として結晶する。

 「僕にメルヘンを贈ってくれた少女が、この月ずゑにHeiraten(結婚)する。追分に来るとき、その少女と偶然いっしょになり、雨の小半日を軽井沢ですごした。別れのときに、汽車の窓で肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を贈ってくれた。そして一生涯もうお会いすることも出来ないだろうと言った。それが夏のプレリュードだった。この少女と別れたやうにしてまた僕は鮎子さんとは別れねばなるまい。まだわがひとはこの村に来ていない」(猪野宛7.11)

 「…ああ、ほんとうにたのしい幸福な平安な一日なのだよ。僕は待っている、指を折って、あの人が来るのもあと五日ほどだ、と」(杉浦宛8.1)

 しかし「…僕に訪れた運命はもっとむごいものなのでした。…戸隠の空に逃げてしまひたい。それさえ出来るかしらと思ひ迷ひながら、たったひとつ逝ったものへの思ひをくりかへしてゐます」(松永宛8.9)

 「いつか僕は忘れるだろう。「思ひ出」という痛々しいものよりも僕は「忘却」といふやさしい慰めを手にとるだろう。僕にこの道があの道だったこと、この空があの空だったことほど今いやなことはない。そしてけふ足の触れる土地はみな僕にそれを強ゐた。忘れる日をばかり待ってゐる。」(柴岡宛8.11)

 「だしぬけに、ここを引きはらふとおたよりするので、びっくりすることと思います。追分の風景はもう記号にすぎなく、何の心のひかれるものはなくなりました。たとひ秋に移りゆく日々の美しさを愛するとしても、愛する者を愛することが出来ないけふそんな美しい日和が何になりませう」(田中宛8.25)

 「二十二日にピクニックに行って、かへりに思はずも?(魚+箴・さより)子とはじめての出会ひの道を過ぎてから、わずか三日の間に激しい心のうごきを見た。今乾いた不安な眼ざしを僕はあたりの風景に投げてゐる。僕が今日この地を去るといったら、不意に帰ることよりも、君は僕がけふまでここに耐えてゐたことにおどろかねばならぬ。次のたよりはおそらく紀州の空から、熊野路をこえて君にとどろくであろう」(杉浦宛8.25)

センチメンタルジャーニー

 そして彼は紀州尾鷲に向かう。

 「紀の国の空はなごやかに青い。夏の色はまだ移らずに、とまってゐる。海の青。島は緑に憩んでゐる。―僕の心を傷(やぶ)るものはひとつもない。蝉の歌がひびいてゐる。」(柴岡宛8.27)

 「もう失われた筈の夏が、ここではしづかに息づいてゐた。僕は、元気になる。きれいな尾根、黒と白の壁のこころよい調和、その上を鳶が悠々と飛んでゐる。」(小場宛8.27)

 そして彼は二十九日勝浦から船に乗り天保山港(大阪)へ向かう。この間の潮岬沖合で、鮎子からの手紙を水晶の十字架といっしょに、夜の海に投じてしまう。

 大阪から京都を訪れ、奈良では二月堂・三月堂や中宮寺、法隆寺を訪れ九月七日頃帰京する。

この夏の出来事は「萱草に寄す」の主題となっている。またこのことは「花散る里」や「鮎の歌」の物語に織られることになった。

 またこの夏には、追分への旅行費用にあてるために「芥川龍之介文学読本」の編集を手伝ったり、彼が愛したテーオドール・シュトルムの「林檎みのる頃」を翻訳したりした。(これは山本書店から十一月発行されている。収録作品は「忘れがたみ」「ヴェロニカ」との三編)

 多忙だった夏を過ごして、九月半ば、立原は追分に向かう。

 「夏のをはわりを何かたったひとりこの村に訪れたかった。僕は一切を忘れつくしてゐた。この村のどの景色も見おぼえなくしらじらと、異国の人の心に触れて来る。何の追憶もここにはない。僕は、僕みづからがもう返って来ないことを知っている。僕みづからさへとほくとほく失われたのだ。」(柴岡宛9.13)

 寺田透と論争し、互いに「未成年」をやめると言い出したのもの九月半ばのことである。ここに「未成年」は危機に見舞われ、翌年一月発行の第九号で休刊となる。

転生

 十月にはいって、夏の出来事を心静かに見つめることが出来るようになって、彼はその中で何かを感じ取ろうとする。

 「信州の日々をみんな一しょくたに忘れてしまはうとばかり考へてゐた。あの日々に僕のねがひとあこがれとにかかはりなしに僕に恵まれた友情までも捨ててしまはうとおもった。たったひとつ失ったもののためにすべてを失ひつくしたいとおもった。そのやうな盲の生き方は何だかまちがってゐたやうな気がする。失ったものの強さにたたかって守るべきものは守らなくてはならなかったのだとおもふ。僕はこのごろ力らしいものが僕のなかで芽生えてゐるやうな気がする。それを力とははっきり言ひきれない。昨日の僕は強いものは醜いと信じてゐた。その考へがすこしづつ消えてゆく。しかしまだ力は美しいとは言ひきれない。弱々しさ、何だかそれをまもる力はもう僕にはなくなったやうだ。僕はもっち粗々しく生きて行くやうな気がする。」(田中宛10.3)

 この後、十月下旬の一週間程、田中一三を訪ねるとして、奈良・京都へ向かう。まず奈良に一泊し、京都に行く。ドイツ文化研究所・朝日ビルを見、梶井基次郎の遺跡を巡り、翌日、銀閣・南禅寺・叡山から琵琶湖を見て僧坊に宿り、翌朝滋賀方向に下り、坂本から大津、そして京都に帰り、高台寺へ回るという旅をした。この旅は「転生と新しい我の発見を自覚する」ものであった。

 「かえって来た――またもととすこしもかはらない場所へ!…青い木の実をさへ愛せよ、醜い固い果実である日さえよろこびを以てうけとれ! 僕の転生と、あたらしい我の発見とは、やっとあの旅のひとときに僕の身にふりかかった運命である。知識との訣別への決意であり、深い憧憬された教養への出発である。僕は今大きな痛みを魂に感じている。しかし、それを感傷の周囲とはもう思はない。何かしらないはかり得ない大きいひろがりが僕のまえには脈々と波打ってゐるやうだ!――よく熟れた果実がおのづから梢を離れるように、その幾ときかの体験は、君と僕との対話のなかにも言葉となって落ちよう。期待と予感、僕には今問題がひとつも見えない程、それは大きく十全に近づいた。僕はそのまへにひれ伏してはならない者の恐怖を感じる。僕のちひささを真に知ったとき、僕は大きくなった。そして問題は更に大きく、更に激しい力で、僕に対決を強いている。僕のちひさい白い花は自然にもう存在しない、人工してそれが存在し得たとき、ひさい白い花は僕のあたらしい生である。……僕の旗はうなだれてはゐない、風に、自分の邁進によっておこる風に、はためいている、たとひそれを把持すね手に弱い青さがのこってゐるにせよ、僕はそれを克服するだろう。そして、激しい強さとなって更に進むであろう。旗手であることを自覚する。」(小場宛10.31)

 新たな立原の出発とみられよう。ここに新たな立原の抒情が生み出されたと考えられる。

卒業論文「方法論」

 十二月十八日に、卒業論文「方法論」を提出している。この論は、「建築を時間や音楽性に結びつけ、廃墟に建築の根源的な意味と意義を見いだそうとした試み」と言われる。

 この「方法論」では、「空間」概念(シュマルゾーのキー概念)をいち早く取り込み、「建築は抽象的空間の形成の造形芸術であることを失はない」と書き、「空間形成者」として建築を位置づけ、「空間形成」に建築の本源的なあり方を求めている。

 今日では「建築」と「空間」はほとんど不可分なものと考えられているが、日本ではその頃まで建築論の範疇で「空間」を語るということはほとんど行なわれていなかった。日本で「空間」という概念が広く流布していくのは戦後の丹下研究室の活動以降であり、戦前にこの概念を使った例はごくわずか、おそらく東大の美学、板垣鷹穂を経由して、板垣と交友関係にあった岸田日出刀の研究室においてである。そこにいたのが立原、一級下の丹下健三および浜口隆一であった。

 また、当時の帝大美学の教授大西克禮が当時のドイツの動向を紹介した『現象学派の美学』が翌年(昭和十二年)出版されるが、この本や同大の美学談話会が発行していた『美学研究』に、オーデブレヒト(ドイツ現象学的美学思想)の紹介などが行なわれているが、立原は師の岸田や板垣などを通じてこの情報圏にあって、そこで現象学と空間の関係に注目したと考えられる。注には文学部の講義に列席していたと思われる「大西克禮教授の講義に由る所多い」とある。

 (丹下健三は、この二〇〇五年三月二二日に九一才で亡くなった。戦後、日本の建築界をリードし、「世界の丹下」と評価されもした。都市計画を専門とし、機能性と美の融合を図る近代建築を推進。広島市の平和記念公園(49年)のコンペで一等に選ばれて注目され、東京都庁第一庁舎(57年)や東京オリンピックの代々木・国立屋内総合競技場(64年)などの設計で世界的な評価を得た。「廃墟に建築の根源的な意味と意義を見いだそうとした」という立原の言葉で思い出されるのだが、丹下健三の幻の作品といわれる戦没学徒記念館(淡路島南端の「若人の丘」に建つ)は、震災後、閉館されたままで、周りの風景の美しさ、静けさ、建物の美しさとは対照的に、廃墟と化しているが、すでに崩れかけている石積みの美しさや、建物自体にも力があり、崇高さが感じられるという。)

周辺の人々

 この昭和十一年の立原周辺の人々の活動を見ておく。

 一月に、堀「聖家族」。三月、萩原「郷愁の詩人与謝蕪村」。九月、丸山「一日集」、「室生犀星全集」。十月、保田「日本の橋」(立原を揺り動かした)。十二月、堀「風立ちぬ」。

 その他芳賀の「ナポレオン・ボナパルテ」が「コギト」に連載されており、神保が「ゲーテとの対話」を全訳している。

 この頃から古典への回帰の機運が高まっている。また、立原の「コギト」への接近が見られるのもこの年からである。その影響は後にあざやかに現れることとなる。

           (Ⅲに続く)

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